以前あるSNSのグループでリーダー格の人から「あなたの俳句には詩心が無い」と言われました。
その頃の私は指摘された俳句に対して諧謔性はあると思うと言い返していました。
詩心とはいったいどういうものなのか、今でも疑問に思っています。
以下は「成田一子 俳句のページ」よりコピーしたものです
「詩的であること」の一番単純でわかりやすい例として詩人萩原朔太郎の言葉を紹介したいと思います。
―田舎の人は都会に、都会の人は田舎に詩情を感じる。
田舎の人は都会のネオンに、都会の人は田園風景に。
都会人であっても華やかな街の灯りに詩情を感じるし、田舎の人であっても野山や田圃に詩を感じることも大いにあるとは思いますが、ある意味朔太郎のこの考え方は、笑ってしまうほど簡単ですが、わかりやすい。
朔太郎の「詩的に感じられるもの」とは「何等か珍しいもの、異常のもの、心の平地に浪を呼び起こす」「現在のありふれた環境に無いもの、即ち「現存(ザイン)」していないもの」であるといいます。
一方「詩的でないもの」とは「平凡に感じられるもの、ありふれて感じられるもの、見慣れて退屈に思はれるもの、無意味で刺激を感じられないもの」と述べています。(『詩の原理』所収「詩の本質」)
2019年10月8日の文章より
この説明は解りやすいと感じました。
でも難解俳句もあり、それをどう理解して受け止めるのかは、この説明では解りません。
結局、俳句は読者の感性に判断を委ねるものなのだろうと私は思うのです。
田舎の人は都会に、都会の人は田舎に詩情を感じるのなら、田舎の人が田舎を詠んだ俳句に出会ってもそれは平凡な風景であり、当たり前のことでわざわざ俳句にするほどの感動などないかもしれないのです。
受け取る人の感性に左右されるから、解る俳句や解らない俳句がある。むしろ全員に解って貰える俳句などないと考えてよい。最近の私はそう思っています。
だから、「詩心がない」と、結社ではないただのSNSのグループ、色々な人がいるグループで言うことは、私には言い過ぎだと思うのです。
もしそれを言うなら、その人のいう詩心とはどういうものか、はっきりさせるべきだと思いました。そしてそれに沿ってそのSNSがあるのだとも。
詩心がないと言われたのは、数年前なのに今も引きずっている私です。