あと何年生きられるか知らないけれど

私らしく、感じたことを前向きに(*^^*)

H姉のこと

天狼や三月遅れで受く訃報

 

年に数度ですが、H姉には手紙や葉書を送っていました。

ただ昨年12月のクリスマスカードが受取人不明で返って来たので、記録に残っている電話番号に電話をかけたのですがつながりませんでした。

そうしたら先ほどH姉が昨年10月に亡くなっていたと連絡がありました。

色々と思うことはありますが、消息が分かって良かったと思います。

次の礼拝後にH姉の思い出を数名の方に話して貰うことにし、また私も2月の第2週でH姉について話すことにしようと思います。

詩的とは、そして詩心とは何か。トラウマとして

以前あるSNSのグループでリーダー格の人から「あなたの俳句には詩心が無い」と言われました。

その頃の私は指摘された俳句に対して諧謔性はあると思うと言い返していました。

詩心とはいったいどういうものなのか、今でも疑問に思っています。

 


以下は「成田一子 俳句のページ」よりコピーしたものです

 

「詩的であること」の一番単純でわかりやすい例として詩人萩原朔太郎の言葉を紹介したいと思います。

―田舎の人は都会に、都会の人は田舎に詩情を感じる。

田舎の人は都会のネオンに、都会の人は田園風景に。

都会人であっても華やかな街の灯りに詩情を感じるし、田舎の人であっても野山や田圃に詩を感じることも大いにあるとは思いますが、ある意味朔太郎のこの考え方は、笑ってしまうほど簡単ですが、わかりやすい。

朔太郎の「詩的に感じられるもの」とは「何等か珍しいもの、異常のもの、心の平地に浪を呼び起こす」「現在のありふれた環境に無いもの、即ち「現存(ザイン)」していないもの」であるといいます。 

一方「詩的でないもの」とは「平凡に感じられるもの、ありふれて感じられるもの、見慣れて退屈に思はれるもの、無意味で刺激を感じられないもの」と述べています。(『詩の原理』所収「詩の本質」)

2019年10月8日の文章より

 

この説明は解りやすいと感じました。

でも難解俳句もあり、それをどう理解して受け止めるのかは、この説明では解りません。

 

結局、俳句は読者の感性に判断を委ねるものなのだろうと私は思うのです。

田舎の人は都会に、都会の人は田舎に詩情を感じるのなら、田舎の人が田舎を詠んだ俳句に出会ってもそれは平凡な風景であり、当たり前のことでわざわざ俳句にするほどの感動などないかもしれないのです。

受け取る人の感性に左右されるから、解る俳句や解らない俳句がある。むしろ全員に解って貰える俳句などないと考えてよい。最近の私はそう思っています。

 

だから、「詩心がない」と、結社ではないただのSNSのグループ、色々な人がいるグループで言うことは、私には言い過ぎだと思うのです。

もしそれを言うなら、その人のいう詩心とはどういうものか、はっきりさせるべきだと思いました。そしてそれに沿ってそのSNSがあるのだとも。

 

詩心がないと言われたのは、数年前なのに今も引きずっている私です。

 

 


 

2022年が終わるので

行く空や今朝の四つ葉のクローバー

    愛北に行こうとして助手席のドアを開けたら、すぐ脇のクローバーの中に四つ葉のクローバーが見えた。わざわざ探したのではなく、何気なく目を向けたら見えたのである。おや?と思ってしゃがむと、あちこちに四つ葉のクローバーがあるので驚いた。

    私の四つ葉に関する自説は成長期の刺激による四つ葉の発生だった。しかし今朝、踏まれる等で傷つく結果の四つ葉の発生という通説を確認してしまったのである。何とも悔しかったが、ラッキーシンボルをいくつも見つけたことで、2022年も決して悪くない年であったと思うことにした。

 

    実際には、愛北で待ち構えていたものにガッカリさせられたのだ。ラッキーシンボルなどと喜ぶ歳ではないのだが、小さなことによってでも笑顔になることは、きっと意味があるに違いない。
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クリスマス礼拝で

二人欠け一人加わるクリスマス

 

今年のクリスマス礼拝に行くと、ある人は濃厚接触者となったために欠席。またある人は腰に転移したとの診断を受けて欠席との連絡を受けた。

とくに二人目の人は80代なので、せっかく手術を受けたのにまた転移となると、手術は無理かもしれないと思ったりした。

医者が判断することではあるが、正直厳しい。

それでも久し振りに別の人が礼拝に来たのは有り難かった。

この教会の責任の重さと意味の重さを思う。

それでも召されて与えられたことなので、もう十分だと任を解かれるまで礼拝を守ろうと改めて思った一日だった。


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詩とは祈りそのもの


詩編てふ祈りの奔流冬北斗

 

先日から冬北斗で句を詠もうと思っていたが、まとまらなかった

同じところをぐるぐる回る星を何となく哀れに思ったことを詠みたかった

今朝、祈りの言葉を読んでいてそれらの言葉が詩であることに初めて気がついた

写生ではなく、祈りなのだと気がついた

同じところをぐるぐる回ることは、その中心である神様への祈りなのだと気がついた

そしてもっとも短い詩である俳句も、絵画ではなく血が流れる祈りになるのだ


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大阪まで

子の声に涙聞き分け冬薔薇

久し振りに娘に会いました

昨年の12月の義母の葬儀以来でした

何やかやと苦しそうでした

私たちに出来ることなど多くはないのははっきりしています

それでも子どもたちには笑顔でいてもらいたいと祈る日々です
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